〜 いまを考える 〜



〜 いまを考える 〜

Associate Generations -28- 

目的は、熟考とmix up。
日記やコラムのような自由な投稿で、同世代のいまについて互いに理解を深めたいと思っています。



2017年5月31日水曜日

「 存在 」




教師による不祥事が絶えない。




もともと潜在的にいたのかもしれないけれど、こんなにもか。




確かに、良い先生もいるだろう。

だけど、碌でもない先生がこんなにいる。




教師だけじゃない。

どこにでもいる。





その事実を受け止め、どのようにしていきていくのか。

どのようにして未来を守っていくのか。






その答えを求めて思考をめぐらせたい。










自分が子供だったら、荒れ狂いそう。

あと超冷ややかになりそう。

大人をなめきる、かもしれない。






これからもそんな未来でいいの?





ごまかすとか、なんとかなるとか、なぁなあにするとか、誰かがやるとか、やっといてくれとか、ただの無責任。



なんだその思考は。


それって、考えてない。






無思考は、そういう自分以外への関心のなさとリンクする。






考えなければ、自分とその影響は存在していない、というのは間違い。






考えない自分は、影響をもって、そこに存在しているのだ。






無思考は、誰かを傷つける。

自分自身も傷つける。






だから、不器用であっても、どんなに知識不足でも、思考を続けていきたい。

written by 茶昊

2017.5.31

2017年5月28日日曜日

「褒め言葉」





ついつい忘れがちだけれど、うちの職場は8、9割が女性です。


社員、パートさん、バイトの子たちを合わせて考えると10代後半から50代までと幅広い年齢層の女性と日々仕事を共にしている。





色々心がけていることはあるけれど、今日ここで書くのはそのうちの一つ。




『いいところを見つけたらすぐ肯定する、褒める』



これは欠かせない。




しかし褒めるというのはとても難しい。



特に女性。




ちょっと失敗例を一つ。

前にトマトの話になった時.....







自分「僕トマト嫌いなんですよねー」


清子さん(仮名)「ええー、おいしいのに。青臭いのがダメ?」


自分「そうなんですよ。フルーツトマトもたくさん試してみたんですけど、どうにもダメで。」


清子さん「そっかー。美容にも良いし、私毎日食べているよ。」


自分「ああ、だからそんなに肌がすべすべなんですね。」


とうっかり思ったことをそのまま口にしてしまったら、


清子さん「セクハラ―!」

と顔を赤くして言われた。






そんなことがあった。


これはアウトだったのか、セーフだったのか、今でも謎のままである。




とりあえずそれは置いておいて。


失敗をしながら日々学んでいっているつもりだけれど、ふと「言葉にできない良いところ」を感じることがある。



しかし。


あ、いいなーと思ってもその人を褒める言葉が見つからない。



こういう時に自分の読書体験の浅さを感じる。



読書経験豊富な人ほど、「中々言葉にできないこと、感情」に形を与えて伝えるのがうまいなと思う。




せっかく感じても、誰にも届かないで、自分の心にも留まらなくて消え失せてしまうのはもったいないと思うんだよね。



読書大事だなー。






written by 日曜の流清

2017年5月24日水曜日

「 幸せのカタチ 」








社会の市場化の先は、僕はまだ見えない。






一方で、



社会の形を考えていくには、幸せについて考えなければならないと思う。





市場化された社会にシアワセはある。

とはいっても、シアワセが幸せとは限らないけれど。





市場化された社会は、過去と比べたら非人情的なイメージをも持つのかもしれないが、そもそも市場化される前のシアワセは本当に幸せだったのだろうか。

過去のカタチへ回帰しても、幸せってこんなものだったか、と思うかもしれない。







そもそもジンテーゼ的な発想で良い社会を作っていかないと、過ぎ去った時代の人々にも、生まれくる次世代の子らにも失礼だ。







さて、







市場化された社会の中で生きていても、市場化できない幸せがある。








それは、個人の中にある想い想いのもの。








それを真剣に追求して行くことが、自分の幸せへの道。








市場化の次の社会は、それぞれの幸せを追求しやすい社会であってほしい。

そのためには、今の社会の中で、市場化できない自分の幸せを追い求めることが必要だろう。









自らを市場化しないこと。









自分にとっての幸せのカタチは何だろうか。





written by 水曜の茶昊


2017.5.24

2017年5月21日日曜日

「市場化」を考える。







パン屋だけれど、毎食お米の流清です。





ある日朝ご飯を食べていてふと、


「そういえば、普段毎日食べているこのお米。実際にどうやって作っているのかなー。」



と思い立ち、実はこの間休みを利用して、恥ずかしながら初めて農業体験というものをしてきました。




お世話になった農家の方々と一緒に田植えや山菜取りなどをやらせていただきましたが、これがなかなかに楽しい。


親族が総出で駆けつけ、イベント的な感覚?なのでしょうか。和気あいあいとみんなで作業し、世間話をしているのが純粋に楽しかった。





きっと昔はこういう風景が大多数だったのかなと思いを馳せました。






さてさて。



翻って現代は、街のスーパーに行き、お金を払えば、お米は手に入る。



お米は「市場化」されているから。







戦後日本において、戦前は家庭内でやっていた様々な領域が急速に「市場化」されていった。


例えば食事や衣服の縫製、育児などが、外食や既製服の購入、託児サービスという形で、生活に浸透してきたように。





「市場化」の功績は便利な生活、効率的な生産だろう。




しかし同時に負の側面。


我々から「体験」や「共同体意識」を奪ったとも考えられないだろうか。






前時代、家庭内での営みや友人、隣人との「好意」や「必要な交換」で済まされていたモノ・サービスが、市場に行き対価さえあれば無限に手に入れられるようになったのは間違いない。



人との密なコミュニケーションを介さず、お金を介すことで、個人の個別化はより進んでいく。



Age28の初回の記事でも書いたが、こうして整理してみると、価値観の多極化を進めた一因は「市場化」にあると思う。




これが良いことか悪いことかはわからない。





そもそも良い悪いの次元では語れないかもしれない。





今後もきっと様々な領域が「市場化」されていく。



この流れは止まらないだろうが、


多極化が一極化にいずれふり戻されるとしたら、


市場化された領域は、社会はどう変化していくのだろうか。






見識不足で完全に勘だけど、やっぱり福祉国家への移行が現実的な線なのかなー。




皆さんはどう考えますか?





written by 日曜の流清

2017年5月17日水曜日

「 たまには 」







こんにちは。








流清さんのブレイクタイムのカフェ&食レポを見てて、出かけたくなりました。









さて、









僕が紹介するのは、「カフェモーツァルト アトリエ」




のお隣の、



「まめ坊」さんです。













え?






続けます。













ウッドデッキ風の店内に入ると、優しい感じの店主さんが。






カウンター越しの棚に、コーヒーカップが並んでいます。





ここでは、コーヒーを頼むと、自分の好きな器を選ぶことができるのです。





気になった器を選び、席で待ちます。





オススメは、窓際のカウンター席。







広々とした窓の外には、竹林が。

風になでられて、ゆらゆらと揺れています。





心から穏やかになれる瞬間。





竹の音に耳をすましていると、「お待たせしました」と後ろから声がかかります。





目の前に置かれた、一杯の珈琲。




芳醇な香りが鼻から頭につきぬけます。




つきぬけたら最後。

その香りに酔いしれるしかありません。








先ほど気に入ったカップを眺めながら、ブレンドに癒されていると、

竹林の奥に、広瀬川と青空が見えました。




自分の記憶か、かすかに聞こえているのかわからない、広瀬川の流れる音と竹林のささやきに身を任せ、ブレンドをいただきました。








自然体な自分を思い出させてくれる。

そんなお店でした。







ちなみに、ブレンドの名前は「広瀬川」

だった気がする。










あー、行きたくなってきた。



こんな日もあります。

たまには、書かせてください、カフェ&食レポ。









自然と、美味しいもの大好きです。笑









すみませんが、写真はないので、実際に行ってみてくださいね。


written by 水曜の茶昊



2017.5.17