自分が知らない世界、知っている世界。
どちらでもかまいませんが、自分が見ている世界にどれだけ確信を得られているのだろうかと考えます。
見えている物事の広さや深さ、それが本当のものか確かめるためには、本を読んだり会話したりして、たくさん学び、たくさん考えて自分の哲学を得るしかないですよね。
哲学はボールのように確かな形を持っているわけではなく、なんどもなんども形を作ろうと手を当てる必要があると思います。
雪玉遊びで球体を作ると、形が崩れたりしますよね。それを一生懸命補強していく様を想像して見てください。それによってやっと哲学や品格のような球体を維持できます。そしてはっきりとしたきれいな輪郭を帯びてくるのです。僕はそういうイメージをしています。
誰かの言葉やチャンスなどのわかりやすい劇的なきっかけだけでなく、その他のきっかけもありふれた時間や環境のなかにも隠れていて、謙虚に受け止めて学んで哲学に手を加えていくほかないなと思います。
「チャンスはチャンスでありつづけない」と恩師は教えてくれますが、チャンスはきっかけですよね。
きっかけは一瞬であり、待ってくれるものではないですし、全く同じ機会が訪れることはありません。
大小関わらず、目の前を駆け抜けていくきっかけを見つけられないのなら、どうしたら良いのでしょうか。
それを知るきっかけもまた、謙虚さがもたらすものなんだよなぁと思います。
茶昊
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