記憶は鮮明に辿れる。辿れるうちに書き記しておこうと思う。
僕が体験した震災の記憶の一片を。
当時まだ大学生だった僕は、たまたま3月10日に帰省して、次の日被災した。
と言っても内陸部だったので沿岸部に比べたら被災したと言っていいものか、正直戸惑う。
妹と母と遅めのご飯を食べていたらものすごい揺れを感じた。戸棚や冷蔵庫から物が落ちるのを防ごうと抑えつつ、揺れに耐えた。
地震が収まり、部屋は散乱し放題。皿や本、味噌汁が入った鍋などあらゆるものが床に落ちた。
ただ事ではないと外に向かうと、普段この時間帯には見ないスーツを着たサラリーマンの人たちも方々に街を歩いていた。
電気、ガス、水道が止まった。家にあったろうそくやアロマキャンドルを灯した。
余震の危険を案じて一人暮らしや帰宅困難なスタッフと一緒にコタツで大勢で一夜を過ごした。
3月だけれど、まだ芯まで冷えるような寒さだった。
テレビが付かなかったので情報は全て携帯やラジオからのものだった。
「津波で数百人の行方不明者が出ている」
「石油コンビナートの火災で死者多数」
錯綜する情報にひたすら恐怖を覚えた。
状況が分からない、という恐怖。
ただただ恐ろしいことが起きてるんだと震えた。
電気の復旧は僕の地域は早かった。確か2日ほどで復旧したけれど、それまではみな携帯の充電のため、使えそうなコンセントを求めて街にさまよっていた。
県庁は電気が通じていて、コンセントに延長コードをタコ足配線的につなげ、数十人が一度に充電していた。
その光景がすでに非日常。
いけないことだと咎める人はその場にはいなかった。誰もが親しい人と連絡を取りたくてたまらなかった。
幸いにも僕の地域は電気と水はすぐに復旧した。ガスは一ヶ月ほどかかったが、電気と水さえあれば、パンは焼ける。
簡単なコッペパンや丸パンを作り、何個かを袋にまとめて店頭販売した。
店先には数百メートルの行列ができた。外は吹雪いていたにも関わらず。
そんな状況が確か一週間ほど続いた。
僕は結局5月頃まで仙台に滞在してお店を手伝った。
その間に、連絡が取れなかった沿岸部に住む友達と再会したり、ひたすらガソリンスタンドに並んだり、洋菓子協会の方々と一緒に沿岸部にケーキを届けに行ったりした。
こうして思い返すと、まだまだ記憶が掘り起こされてくる。
恥ずかしながら、実は今までまともにお店を手伝ったことはなかった。震災がなければ、ろくに家業に触れる機会もなく、進路を決めていただろう。
自分が震災前日に帰省し、当日被災した意味。
それは何だったのかな。と、折に触れて今後も問い続ける。
流清
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